2012年7月5日木曜日

ダンスと自分の成長




ダンスねたが続きますが、2012年5月31日にコンテンポラリーダンスの発表会がありました。
前半 https://vimeo.com/43786405
後半 https://vimeo.com/45058595

上は撮影されていたビデオのリンクです。
どうぞご興味のある方は見てください~!

2011年の12月に一度Sacca fisolaにあるコンテンポラリーダンスのレッスンに無料体験に行き、他のダンススタジオもあったにもかかわらずなぜかこのダンススタジオを気に入り、このダンススタジオに1月、2月、3月、4月、5月と通っていました。5月になってから先生が

「5月の末にみんなでダンスのエキシビションしたいんだけど、参加したい?」

と言ってきたので、

「ぜひともしたいです!」

と即答でした。

そもそも私はダンスを18歳くらいの時から真剣に取り組み始めていて、Santa Barbara City Collegeに行かなかったらNew YorkのBroadway Dance Centerという所に2年間留学する予定でした。18歳の時の私はダンサーになることしか頭になかったのです。

18歳の時に入学した大阪の枚方市にある関西外国語大学の英米語学科は在学中にダンサーになりたいという夢の方が大きくなり、一年で退学。本当に生きたい人生を生きたいという思いから、日本の大学という保険の様なレールから大きく外れたのでした。

さて、19歳で大学中退、フリーターという何も社会的に何者でもない自分に戻り、学生でも社会人でもない中途半端なスタートでバイトをしながら毎日の様に京都の五条にあるDo-oneというダンススタジオに一年間通ったのでした。

バイト代は月8万から12万?稼いでいた中で3万~4万はダンスのレッスン代に費やしていました。発表会があれば衣装代、発表会参加費、交通費と色々お金がかかりました。19歳といえどもなぜかダンスだけにかけることに不安を感じ始める私。

「本当にダンスだけがしたいのかな?」

と本能的に問い始めた頃でした。


英語も好き、空手も好き、ダンスも好き、留学もしたい。私の好奇心は自分の進路を迷わせました。大学に行きなおすべきだろうか?それともダンススタジオに通ってダンサーになるべきだろうか?

「本当は何がしたいんだろう?」

とにかく10代は自分が誰か分からず自分との葛藤だらけでしんどかった思いがあります。
なんとな~く大学に行ってなんとな~く就職することが出来なかった私。

私なりの納得する答えが必要だったのです。

一年間フリーターをしながらダンススタジオに通ってダンス生活を体験して決めた決断はNew Yorkに行かず、CaliforniaのSanta Barbaraの短大への進学でした。

結果短大から大学に編入することになり結局アメリカには4年間いることになりました。

「ダンスだけがしたいんじゃない。私は政治学も英語もフランス語も国際関係学もビジネスも全て勉強したい。ダンスだけに青春をかけるのはもったいない。ダンスはいつでもできる。でも留学はいましかできない。」

と自分の可能性の幅を広げる方向でかたまりました。



20歳になった2005年の8月11日から24歳の2010年の2月までアメリカにいた私。
専攻はジャーナリズムで副専攻が国際関係学でしたので、実は思いっきりダンス生活から離れてしまったのでした。学校と図書館と家を行き来するだけの日々が続いたこともあります。100ページのリーディングの宿題が出て、英語との戦いにやっきになっていました。

踊るといえばクラブでみんなと踊るくらいでした。一度California State University of Long Beachに編入した後、Jazz クラスをとりましたが、どこかのグループに混ざって発表会をしたり、エキシビションをしたりすることはあまりありませんでした。

2010年3月、アメリカから帰国後すぐ、地元の宇治市の公民館で子供達に英語とダンスを教え始めることになりました。

「ゆうこちゃん、空手子供達に教えてあげてくれる?」

と小さい頃からお世話になっている伊勢村先生にいわれ、それが

「ゆうこちゃん、ダンス子供達に教えてあげてくれる?」

に変わったのでした。



「ダンスを教える?」

対象は3歳くらいの子供から5歳くらいだったので、体の動かし方だけでもという感じだったので、あまりストレスはなかったのですが、ダンススタジオに行きなおす自分がいました。やっぱり地元の子供達に教えるんだったらちゃんと学びなおさないとっと。

2010年の11月に地元の文化センターで発表会がありました。

「ゆうこちゃん振り付け考えてくれる?」


自分でダンスの振り付けを考えたことはあまりなかったので、私はあまり乗り気じゃなかったのですが、添乗員をしながらバスの中で音楽を聴いて子供達のダンスの振り付けを考えたりしていました。きっとお客さんはこの添乗員大丈夫かなって思ってたと思います。



なんとか自分の振り付けを子供達に教えて2010の11月に踊りきった時は達成感と人のためにダンスをすることを覚えました。18歳の時の自分はかっこいいからとかsexyだからとか見た目しか考えていなかったですが、25歳になってダンスの表現の仕方がだんだん変わってきました。特にこのボランティアで子供達にダンスを教えて、人の為に教えて踊るダンスは内面からの真の幸福感がありました。

この体験でアメリカ中にダンスから離れていた私は日本でダンスを続けるという方向に変わりました。別にプロじゃないからってダンスをやめる必要はない。ダンスが好きだったら続ければいいんだ。自分がダンサーだと思えば自分はダンサーなんだと。

そんな中また添乗員の仕事も子供達にダンスを教える仕事も全てを捨てて2011年の4月に世界旅行を始める私。香港、中国とブリュッセルを一人で回り、2011年の8月からはイタリアのベニス弊社のHostelsclub.comで働き始めることになりました。

またダンスからしばらく離れる私。




イタリアの ベニスに来て2011年の8月~12月までダンスから離れていたと思います。まずベニスに来て、イタリアの生活に慣れることが大変だったことと、イタリア語でダンススタジオを探すのも大変だったからです。
(2011年の10月に日本に出張に帰った時は1回か2回ビジターとしてダンスのレッスンに行きましたが)

そして2011年の12月にイタリア人のダンスの先生Marianna Andrigoに出会いコンテンポラリーダンスを本格的に始めたのでした。

2012年の3月からはCa Zanardiでタンゴを始めました。

27歳になってダンスを再開した私。18歳の頃のダンスとは全く変化していました。
ダンスは外形だけの美しさではなく、内面を表現する大切な自己表現の一つだと認識するようになりました。ダンスは私にとってとても大切なコミュニケーションの一つで体と心をつなげる大切な儀式なのです。

9年間に渡るダンスと私の関係はだいぶ変化しました。
しばらくつかず離れずの関係でしたが、今ではダンスはライフワークだと思っています。

今回ベニスでイタリア人に混ざってダンスコンテンポラリーの発表会が出来たことは自分にとって大きな収穫です。この体験は一生宝物だし、ダンスを通じてできて友達は一生物です。




 恩師のMariannaは日本の文化に興味があり、私が指揮を取って、漢字を宙に書きみんながその漢字を感じ取って自由にダンスで表現するというパートを発表会に取り入れました。イタリアで日本の文化が尊重されダンスで表現されるなんて感動の体験でした。



上の様子が私が漢字を宙に書いて、みんなが漢字をダンスで表現している様子です。



今回はダンスコンテンポラリーと空手を混ぜました。1分程トリでソロを頂いたので、コンテンポラリーと空手を混ぜた振り付けを自分で考え最後にMariannaがショーの終わりとして使ってくれました。

上が空手の残心をしているところです。空手で残心は敵を倒した後に、敵が起き上がっても攻撃態勢に入れるように敵が完全に死んだか確認するポーズです。また、一人の人間を殺してしまったという行為を自分自身の心で感じるという意味合いもあります。

今回のショーで私のメッセージは

「人生は困難も多く、人はネガティブになってしまうこともあるが、何があっても人は乗り越えなければいけない。何があっても生きていかなければいけない。」

だからこの残心は人生何があっても乗り越えていこうという自分の人生に対する意気込みでした。



27歳になったからこそ、意味のあるダンスを表現できる自分になりました。これからも自分の内面を見つめ、外面だけではなく内面を磨きつつ自己表現していきたいと思います。これからも自分を高めつつ、常に自分のベストを目指しながら自分をプロデゥースしていきます。

今回はダンスをする環境を与えてくれました恩師と見に来てくれました友達に心から感謝したいと思います。

2 件のコメント:

  1. 感動しました。

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    1. ありがとうございます。紆余曲折ありましたが、これからもがんばります!

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